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第4話 天才公爵は文章を読まない

Autor: みだん
last update Data de publicação: 2026-10-26 18:55:02

契約院に通いはじめて、五日目の朝だった。

研究室の紙の塔は相変わらずだったが、窓際のリゼットの机のまわりだけは見違えるほど片づいていた。

読み終えた契約書は日付順に、未読のものは種類ごとに、背をそろえて棚に並んでいる。

朝の光がその一角にだけまっすぐ届くのを見て、ルネが「この部屋に日が差すのを、久しぶりに見ました」と真顔でつぶやいたほどだ。

そして、その光が届かない部屋の奥、テオドールの机の上には、封筒の山ができていた。

「先生。これ、いつになったら開けるんですか」

ルネが山の一角をつまみ上げる。

どれも上等な紙で、家紋入りの封蝋が押されていた。

「開けなくても中身は分かるよ。『うちの娘はいかがでしょう』だ。三十通あれば、三十通ともそう書いてある」

「縁談のお手紙ですか?」

思わず口を挟むと、テオドールは心底うんざりした顔で頷いた。

「公爵家の当主が独り身だと、世の中の親はみんな親切になるらしい。僕は研究がしたいだけなんだけどね」

ルネは深いため息をつき、山の中から一通だけを抜き出した。

ほかのものより一回り大きな封筒で、見るからに格の違う封蝋が押されている。

「では、せめてこれだけは開けてください。王宮からです」

「……それは、あとで」

「先週も、あとでとおっしゃいました」

公爵は聞こえないふりをして、術式の図面に目を落とした。

リゼットは呆れるより先に、少しだけ不思議な気持ちになった。

三十年前の契約書の術式を一目で見抜いた人が、自分宛ての手紙一通、開けようとしないのだ。

昼前、研究室の扉が勢いよく開いた。

「やあやあ、公爵閣下! 今年もお元気そうで何よりだ!」

入ってきたのは、よく響く声の、恰幅のいい紳士だった。

仕立てのいい上着の胸を張り、満面の笑みで両腕を広げている。

その勢いに押されて、紙の塔がまた一つ、ぐらりと揺れた。

「ボーモン伯爵。ルネ、お茶を」

テオドールが珍しく腰を上げて客を迎えた。

ルネが小声で教えてくれたところによると、ボーモン伯爵はテオドールの研究にもう何年も資金を出している後援者なのだという。

「来年の後援についてだが、新しい契約書を用意してきた。額は今年の倍だ。どうだね、悪くない話だろう」

伯爵は分厚い書類の束を、机の上にどさりと置いた。

テオドールはその末尾を開き、魔法印の術式が描かれたページにだけ、じっと目を走らせる。

「術式に問題はありませんね。いつもどおり、きれいな書式だ」

そう言って、彼はあっさりとペンを取った。

条文のページには一度も目を向けないままだ。

「先生は、術式は三回読み返すのに、条文は一回も読まないんです」

ルネがリゼットの耳元でぼそりとささやいた。

リゼットは気がつけば一歩前に出ていた。

「お待ちください、公爵様」

伯爵とテオドールがそろって彼女を見た。

真顔のリゼットと目が合った伯爵が、なぜか一瞬たじろぐ。

三白眼の猫目のせいで、にらんでいるように見えたのかもしれない。

リゼットとしては、ただ真剣なだけなのだが。

査読係の分際で口を出すべきではないのかもしれない。

けれど読まれないまま署名される契約書を黙って見過ごすことは、どうしてもできなかった。

「署名の前に、条文を拝見してもよろしいでしょうか。それが、わたしの仕事ですので」

テオドールは一瞬きょとんとして、それから、ぱっと顔を輝かせた。

「そうだった。君を雇ったのは、こういうときのためだ。伯爵、うちの査読係に読ませてもかまいませんね?」

「む? ああ、もちろんだとも。どうぞどうぞ」

伯爵は大らかに笑ったが、その目がほんの一瞬だけ泳いだのを、リゼットは見逃さなかった。

彼女は書類の束を受け取り、窓際の自分の机で一行目から読みはじめた。

後援金の額、支払いの時期、研究の報告の仕方。

ここまでは、どこにでもある後援契約だ。

第六条で、目が止まった。

――研究によって得られた成果に関する一切の権利は、後援者に帰属する。

リゼットは顔を上げずに、ページをめくり続けた。

本文を読み終え、附則に入る。

後援の打ち切りの条件、書類の保管の仕方、どの契約書にも並んでいそうな決まり文句の数々。

そして、附則の最後の一行。

――なお、本契約は、甲と乙の息女との婚約を前提として結ぶものとする。

リゼットは静かに書類を閉じ、二人のところへ戻った。

「申し上げます。第六条によれば、公爵様の研究の成果は、すべて伯爵家のものになります。それから、附則の最後の一行に、この契約は公爵様と伯爵のお嬢様との婚約を前提とする、と書かれています」

研究室の空気がぴたりと止まった。

「……婚約?」

テオドールが生まれて初めてその単語を聞いたような顔をした。

ルネが天を仰ぎ、伯爵は頭をかいて、豪快に笑い出した。

「はっはっは! いや、見つかってしまったか。悪く思わんでくれ、閣下。娘が閣下のことを、いたく気に入っておってな。親としては、何とかしてやりたいのが人情というものだ」

悪びれるどころか、どこか嬉しそうでさえある伯爵に、リゼットは怒る気も失せてしまった。

この人は悪い人ではない。

ただ、押しが強すぎるだけなのだ。

「すぐに返事をくれとは言わん。五日後に、我が家で夜会を開く。閣下もぜひ来てくれ。そのときに、改めて話そうじゃないか」

伯爵は契約書を小脇に抱え直すと、来たときと同じ勢いで研究室を出ていった。

扉が閉まると、テオドールは椅子に沈みこんで、両手で顔を覆った。

「危なかった……。あのまま署名していたら、僕は研究も独身の身も、まとめて売り渡すところだった」

「だから条文を読んでくださいと、いつも申し上げているんです」

ルネの容赦ない声に、テオドールは指のあいだから、ちらりとリゼットを見上げた。

「ありがとう、ベルナール嬢。君が読むと、条文というものが急に恐ろしく見えてくるな」

「恐ろしいのは条文ではなくて、読まずに署名することのほうです」

リゼットがそう返すと、テオドールは一瞬目を丸くして、それから声を立てて笑った。

子どものような、屈託のない笑い声だった。

そのとき、閉まったばかりの扉がもう一度、軽やかに叩かれた。

返事を待たずに入ってきたのは、華やかな装いの若い令嬢だった。

ドレスの裾をさばく仕草ひとつにも、自分がどう見られているかを知り尽くした者の余裕がある。

令嬢は研究室を見回し、窓際に立つリゼットの上で、ほんの少しだけ視線を止めた。

それからテオドールに向かって、花がほころぶように微笑んだ。

「ごきげんよう。父がお騒がせいたしました。ボーモン伯爵の娘、ミレイユと申します」

令嬢は優雅に一礼し、はっきりとした声で続けた。

「テオドール様の、婚約者になる予定の者ですわ」

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